しなやかなこころで、

臨床心理士Hecoのひとりごと

自傷行為の捉え方と対処法

こんばんは。

 

 

今日は自傷行為についての記事で、少し重たい話になるかもしれません。

 

 

でも伝えたいことだったので書かせてください!

 

 

 

 

 

 

 

自傷行為はいけないこと?

 

 

ぼくは今総合病院の精神科で働いていますが、自傷行為(リストカットアームカット、頭を打ち付ける、髪の毛を抜く、OD*1など)をする患者さんは一定数おられます。

 

 

特に思春期の患者さんに多く見られます。

 

 

そんな思春期の患者さんの自傷行為に関して、周りの医療スタッフは口をそろえて「そんなことしたらダメでしょ!」とか「なんでこんなことするの?!」等、半分怒ったように言います。

 

 

もちろん、医療従事者として患者の身の安全を心配してのことなので、その言葉が悪いとは言いません。

 

 

しかし、考えて欲しいのは、『なんでダメと言ってしまうのか』ということです。

 

 

前回の記事の中で『常識を盲信するな』『善行も時と場合を考えなければいけない』というような知見がありました。

 

 

 

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西野さんの例えで言うところの、

 

 

風で倒れた自転車を起こす=善行

 

 

と同じくらい、

 

 

自傷行為=よくないこと、とめなければいけないこと

 

 

になっているのでは?

 

 

と思っています。

 

 

誤解を恐れず極論を言うなら、彼(彼女)らの身体を彼(彼女)がどう扱おうが自由なはずです。

 

 

自傷行為の背景は様々で、中には『なんとなく』やっている人もいる、中には『思いを言語化できないがため』、中には『いけないとわかっててもやらざるを得ない』、中には『血を見ると落ち着く、生きてると実感できる』、中には『心配してもらうため』というのもあるかもしれません。

 

 

人によっては、『つらい現実の問題や目の前のネガティブな感情から避難』したり、その場限りであっても『こころの痛みを和らげてくれる応急処置』として自傷が機能していることもあります。

 

 

とにかく、そんな個々人でまったく違う、様々かつ複雑な背景を無視して、「とにかくやってはいけない!」なんてことを言ってもあまり響きません。

 

 

どころか、関係が悪化するかもしれません。

 

 

 

対応として

 

 

まずは慌てないことと、大袈裟に捉えないことだと思います。

 

 

自傷行為は日常に『ふつうに』存在します。

 

 

ドラマの世界の出来事ではありません。

 

 

慌てたり、大袈裟にそれを考えてしまうと、当事者の方が動揺してしまいます。

 

 

そして、対応としてもっとも大事なことは、その行動をやめさせようとすることではなく、どうしてその行動をするのか(せざるを得ないのか)を『聴くこと』と、『心配していることを伝えること』です。

   

 

 当然、聴いても本人も分からない場合もあります。

 

 

その場合は、無理に聞き出そうとはしないでください。

 

 

また、親としての立場なら『怒る』ことも大事ですが、『怒る』背景に『心配している』という思いがあることが、当事者にきちんと伝わるように怒って欲しいと思います。

 

 

『やめさせたい』の背景に『心配』があることは、支援する側としては重々承知ですが、当事者としては『やめさせたい』という表面上の思いが目に付きやすいので、『心配している』ことを『きちんと』伝えて欲しいと思います。

 

 

日本では忖度が当たり前になっているので、「そんなこと言わなくてもわかるでしょ?」的な言動が目立ち、結果としてすれ違いが起こっているように見えます。

 

 

親子であれ、夫婦であれ、親友であれ、どんな人間関係でも、結局は自分と自分以外であり、自分以外の人の考えていることは完全には理解できません。

 

 

言葉を使わなければ、すれ違って当然だと思います。

 

 

だからこそ、人間は『言葉』を使って相手とコミュニケーションをとるのです。

 

 

だから、相手の察する能力、忖度する能力に甘えるのではなく、思っていることは可能な限りで伝えて欲しいと、そう思います。

 

 

 

NG対応

 

 

対応としてNGなのは、『問いただす』『責める』『禁止する』ことです。

 

 

本人たちもどうして自傷をしてしまうのかわからないこともあります。

 

 

なので問いただされても、答えられず心に蓋をしてしまう可能性が高いんです。

 

 

また、その行為が世間一般から見て好ましいものでもないことも、言われなくてもわかっている場合が多いです。

 

 

それをわざわざ責めることに意味はありません。

 

 

禁止することは、約束を結ぶという事です。

 

 

つまり、それが達成できなかったときに自身を責める理由になってしまいます。

 

 

また、自傷行為が目の前のつらい現実や感情から目を背けるための応急処置として機能している場合もあるということは前述した通りです。

 

 

その応急処置の手段を奪ってしまうことは、ますます窮地に追いやることになる可能性を作ってしまうという事です。

 

 

 

 

 

問題の本質

 

 

自傷行為をする人の最大の問題は、自傷行為をすることではありません。

 

 

つらい時、しんどい時に他者にSOSをうまく出せないことだと思います。

 

 

 

だからこそ、支援者側は『聴く』と『伝える』という言語的なコミュニケーションを取ることが望まれるのです。

 

 

注意してほしいのは、ちょっと『聴いた』くらいで話せるようになるのであれば、自傷行為はしていない、ということです。

 

 

つまり、ゆっくり時間をかけて関係を作っていき、はじめて対話ができるようになるということです。

 

 

この記事を読んで、「そうだったのか!よし、じゃあ聴かなきゃ」と様々な心理背景を聴こうとして、すぐに色々出てくるわけがありません。

 

 

丁寧に、かと言って腫れ物に触るようにするのでもなく、自然に関わって欲しいと思います。

 

 

 

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※ここでは、あくまでぼく個人の経験や知見をもとに記事を書いています。記事でも述べているように、自傷行為に至るまでの心理背景は本当に様々です。つまり、当然のことながら、対応も個々人に合わせて変わります。ここで挙げている対応策や、NG対応は『広くあてはまりそう』というだけで、どのケースにも当てはまるわけではないので、ご注意ください。

*1:overdose:薬物を濫用、過剰摂取すること

HECOについて

自己紹介の記事です。

 

自分について話します。

 

男性。アラサー。既婚。

 

~中学

 

生まれは岩手県北部の田舎町。

生まれた当時は人口は1万人ちょっとだったかな?

今は合併して町の人口としては昔よりも多い。

 

中学までは地元にいました。

中学の時の部活は柔道部。よく意外と言われます。

どこにでもいる普通の子どもでしたが、人生で一番太ってたのもこの時期です。

 

 

 

 

高校生活

 

高校は事情があって奈良県の高校に進学しました。

寮生活してました。

この頃から『臨床心理士』になりたいと思うようになりました。

大学受験はセンター試験で大失敗をし、情報弱者だった自分は担任に促されるまま大阪教育大学への進学を決めます。

この時は、大阪教育大学では心理士養成の過程がないと知らなかったんですね…

 

 

大学生活

 

そして、大学では他の記事にもあるように人間科学部の中の『福祉学』のコースに行くことになりました。

大学時代は学費や生活費を稼ぐためにバイトをしていることが多かったと思います。

ぼくは乗り物が好きなので、車が欲しいと考えてたので大学1年の間は免許代と車代として50万円貯めようと決意しました。

そして、1年の終わりに免許合宿(オフシーズンに行ったので20万くらいで取れた)で免許を取り、2年のはじめにコミコミ30万くらいのオンボロの軽自動車を買いました。

その軽自動車で、山口、島根、広島、岡山、香川、福井、金沢、長野、東京、名古屋、etc…など色々なところに行きました。

地元岩手の成人式にも車で行きました。

 

臨床心理士を取るためには大学院に行く必要があります。

しかし、大阪教育大学の大学院ではスムーズに臨床心理士が取れないことを知り、他大学の院を受験することを決めました。

ぼくは大学の3年の夏くらいから勉強を始めました。

福祉学のコースからの受験だったため、受験仲間はほとんどおらず、また授業も受験に使えるものはなかったため、独学&孤独な受験勉強シーズンのはじまりです。

大各受験の時によく使わせてもらっていたジョイフルというファミレスに再び通い始め、当時はまだ持っている人も今ほど多くはなかったipadを駆使して(用語をぐぐってただけ)、勉強していました。

ここでもまた、第一志望の院には行けなかったのですが、無事、京都教育大学の大学院に進学することができました。

京都には一度住みたいと思っていたので、うれしく思ったことをよく覚えています。

 

 

大学院生活

 

大学院の生活は、非常にハードでした。

M1(修士1年)の時は、講義も多く、実習や研究のことなど、とにかくやることが多かったです。

また、ぼくの場合は学費と生活費のためにバイトをする必要もあったのでなおさらでした。

M2になったらなったで、実習の本格化や修士論文のための研究など、講義は少なくなったものの、質的な忙しさがありました。

後半は、どっかで遊んでても、飲み会に参加してても修論のことが頭から離れなくなり、心の底から楽しめることは少なかったように思います。

 

 

そして大学院卒業後、無事に臨床心理士資格を取り、いくつかの仕事をしてから今の総合病院に勤務となりました。

 

 

経歴(バイト含む)

 

アート引越センター

・家庭教師

くら寿司でバイトリーダー

eo光の店舗での営業

児童自立支援施設で寮の宿直職員

不登校児の家に行って遊んだり勉強を教えるボランティア

特別養護老人ホームの宿直職員

適応指導教室の指導員

児童相談所一時保護所の支援員

・子ども発達相談センターの発達相談員

・総合病院の心理判定員←なう

 

 

趣味など

 

〇ゲーム…ジャンルは基本的にはRPGが好きです。ドラクエ、テイルズ、FF少々。最近はスマホゲームのモンスターストライクポケモンGOにはまっています。

 

〇漫画…ジャンプとマガジンは毎週読みます。王道の少年漫画は大体好きです。少女漫画もちょこちょこ読みます。好きな作品は、最近だとDr.ストーン、約束のネバーランド、東京喰種。昔だとスラムダンクハンターハンター銀魂バクマンスケットダンスあだち充作品など。

 

〇アニメ…特にこれが好き!というのもないですが、おすすめされたらなんでも観ます。ジャンルとしてはほのぼのしているのが好きかな。けいおん!東のエデンSHIROBAKOコードギアス、あたりは人におすすめしています。

 

〇音楽…邦ロックと呼ばれるジャンルが好きです。BUMP OF CHICKENが中学から今もなおずっと好き。数年前から米津玄師が好きで、BUMPに次ぎ2番目くらいの位置まできてます。その他好きなのを挙げたらキリがないのですが、SUPER BEAVERRADWIMPSフレデリック、やばいTシャツ屋さん、キュウソネコカミ、Mrs.GREEN APPLEASIAN KUNG-FU GENERATIONELLEGARDENKANA-BOONKEYTALK、THE ORAL CIGARETTS、クリープハイプ、amazarashi、sumikago!go!vanillas04 Limited Sazabysなど。

 

〇動物…かわいいものはなんでも好きですが、特に猫ですね。飼いたい。たまに猫カフェ行きます。小動物が好きです。

 

〇乗り物…車で旅行するのが好き。車中泊でどこまでも行ける自信がある。全国色んな所に行きました。逆に(?)海外にはあんまり興味がない。バイクも好き。いじるとかはてんでダメで、結局乗ってどこかに行くのが好き。あと、バイクの写真を撮るのが好き。

 

 


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ブログについて

 

忘備録のような気持ちではじめました。

ブログを書くために積極的に勉強するようになったので、それだけでも自分的にはいいものだなぁと思います。

 

また、自分が今勤めているのは病院の精神科ですが、日本では精神疾患に関する誤解や偏見が蔓延していることを常々感じています。

なので最近は、精神疾患に対する正しい知識が広まることで、少しでも精神科に通う人たちが生きやすくなる世の中になればなぁと、淡い希望を抱いて記事を書いています。

のんびりとした性格なので、こつこつ焦らずにやっていこうと思いますので、この記事を読んでいただいた方は、温かい目で見守ってくれたらと思います。

 

 

【書籍レビュー】バカとつき合うな

こんばんは。

 

 

久しぶりの書籍レビューです!

 

 

今話題の『バカとつき合うな/堀江貴史・西野亮廣を読んでみました。

 

 

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タイトルから面白さがにじみ出てますね(笑)

 

 

キングコングの西野さんの考え方が好きなので手に取った書籍でしたが、読み終わった後は堀江さんのことも好きになっていました(笑)

 

 

まんまとやられたなーと思います。

 

 

 

 

 

 

どんな本?

 

 

さて、人は社会の常識、ルール、社内規則、人間関係、色んな事に縛られて生きていると思います。

 

 

でも、「その『縛り』って誰が課しているもの?」

 

 

ぼくは常々そう考えていました。

 

 

例えば、『学校は絶対行かなければいけないところだ。』という『常識』があります。

 

 

じゃあ、学校に行かなければどうなるのか。

 

 

人によっては「勉強ができない。」「友達ができない。」「部活ができない。」と言うでしょう。

 

 

でも、それって正しいんですかね…?

 

 

勉強は家でもできます。友達は今の時代、ネットでもできます。部活じゃなくてもやりたいことはできます。

 

 

そもそも、勉強をしなければならない理由も、友達が多くいなければいけない理由も、部活動に励まなければいけない理由も、本当はありません。

 

 

それらを当然のように推奨してくる親、先生、大人は数えきれないほどいると思います。

 

 

そのような誰かに作られた『常識』を当然のように押し付けてくる人に反して、「常識なんかないんだよ。自分の好きなことをしていいんだよ。」と教えてくれる、というか考えるきっかけをくれるのが、この本だと思います。

 

 

  

個人的におもしろいなーって思ったところをピックアップしてご紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

 

学校を盲信するバカ/堀江 貴史

 

 

現在は学歴幻想が崩れ、いわゆるいい大学に行くことが理想のルートとは言えなくなっています。

 

 

それでもやはり、多くの人が『いい会社に入るために』『いい大学に入るために』勉強をしろ、と言うと思います。

 

 

堀江さんは学校を『従順な我慢体質を刷り込む場所』と揶揄しています。

 

 

『親や先生の言うことをきくいい子ちゃん』『出題者の意図を忖度して答えを出していくテストが高得点の人』が優等生としてもてはやされる社会が学校だ、と。

 

 

社会に出ても、上司の言うことを従順に聞く人が出世していくのが日本社会ですよね。

 

 

学校はその都合のいい歯車を作るためのシステムの一部とも言えるかもしれません。

 

 

学歴エリートの得意科目は、数学でも英語ではない。

彼らの本質的な得意科目は、従うことと我慢することです。

 

 

なんかもう、素直に「なるほどなぁ~」って思っちゃいました(笑)

 

 

特段何か行動を起こすわけでもなくても、このような視点で、社会の常識を疑ってみる、というのは有意義だと個人的には思います。

 

 

『盲信』とはそこに個人の思考が入っていません。

 

 

それをきちんと『自分で考える作業をしていく』、それが『常識を疑う』ということに他ならないと思うからです。

 

 

 

善意なら何でもありのバカ/西野 亮廣

 

 

これはつまり、自分がいいことをしていると信じて疑わないバカのことだそうです。

 

 

作中の例えでは、

 

むちゃくちゃ風が強い日に、自転車が倒れまくっていました。そのまま通り過ぎようと思ったのですが、あるおばちゃんが、倒れてる自転車を片っ端から立たせていくんです。で、ぼく、さすがにガマンできなくなって、おばちゃんが立たせた自転車を片っ端から寝かせてったんです。

 

と、あります。

 

 

つまり、強い風がまだ吹いている中で自転車を立たせても、また倒れるだけで、今度倒れたときは自転車が壊れる可能性がある、ということですよね。

 

 

おばちゃんの中では、『倒れている自転車を起こしてあげること』=『善行』であり、それはもはや理屈ではなくなっている。

 

 

これについて、「善行が思考停止をする口実を作ってしまっている」と西野さんは言っています。

 

 

善行はその言葉の通り、『善い行い』です。

 

 

しかし、どんな時にも、あるいはどんな人にでもあてはまる『善い』なんかあるのでしょうか。

 

 

ある人にとっては『善い行い』でも、別の誰かからしたら『悪い行い』の可能性もある。

 

 

「どっかで誰かがやってること」「ふつうはそうするでしょ」みたいな、表面的な『善行』をせずに、本質的な、本当の意味で相手の助けになることを自分で考えて行動する必要がある、ということかなと思います。

 

 

要するに、ちゃんと考えろよ!ってことだと思います(笑)

 

 

前述した堀江さんの学校教育に関する話も、要は一緒のことを言ってますよね。

 

 

 

 

堀江さんと西野さん

 

 

最後にこの本の著者について少し触れたいと思います。

 

 

この本は『バカ』という耳触りとしてはよくない言葉を使って進められています。

 

 

バカ呼ばわりして他者を否定しているように見えるのも無理ないことだと思います。

 

 

でも、この2人は本当に人間が好きなんだろうなぁ、と思います。

 

 

そうじゃなかったら、わざわざこんな風に他人の人生のことを気にしたりしません。

 

 

本書の中でもありましたが、バカ呼ばわりについても否定しているように見えて否定してません。

 

 

ひとりでもふたりでも、教育界や日本社会そのもののシステムのおかしさに気付いてもらって、このシステムから自由になって、人生をよりよく生きれるような知見を広めたいんだろうなぁ、と思います。

 

 

大袈裟にいうと、ぼくらのために社会のルールを変えようとしていた、と言ってもいいかもしれません。

 

 

また、『余計なお世話はヒーローの本質』(僕のヒーローアカデミア)という言葉もありますが、お2人の行動はまさにそれかもしれません(笑)

 

 

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まぁ、なんにせよ、この本を手に取ったものとしては、きちんとこのお2人の思いを受け止めたいところではあります。

 

 

そして、それはぼくの中では『ちゃんと考えて行動する』ということに他ならないです。

 

 

社会、善行、常識、マナー、慣習など、『そうと決められている』ことに対して、自分でクエスチョンを出し続け、行動に移せないまでも、納得して生きていけたらと思います。

 

 

 

 

おもしろいかつ読みやすい。ということで1時間半ほどで読めてしまいます!

 

 

みなさんも手に取ってみてください(*^_^*)

 

 

チック症の種類と治療法

こんばんは。

 

 

最近仕事の方が忙しくなってきました。

 

 

年が変わる前に!と来られる患者さんは多いみたいです。

 

 

冬は体調を崩しやすいということも影響しているかもしれませんね。

 

 

皆さんも体調管理には気を付けてください。

 

 

 

 

さて、今日は『チック』の話をしたいと思います。

 

 

ぼくの診ている患者さんのひとりで、チックが原因でからかわれ、結果仕事に行けなくなった人がいます。

 

 

チックに限らずですが、日本は障害の理解という視点が弱いように感じています。

 

 

視点、というよりも、学ぶ機会があまりに少ないような気もしています。

 

 

記事にすることで少しでも多くの人が種々の症状や障害を知り、偏見や当事者の心労が減ることを祈るばかりです。

 

 

では、チックについて書いていきます!

 

 

 

 

チックとは

 

 

聞いたことがない人もいるかもしれませんね。

 

 

正しくはチック障害、チック症などと呼ばれています。

 

 

基本的には小児の障害、症状です。

 

 

いわゆる『発達障害』とは異なるのですが、心身の発達上で起こりうる障害なので発達障害のひとつにくくられることもあります。

 

 

メディカルノートでは

 

神経疾患のひとつ。

本人の意思とは関係なく(不随意)・急に(突発的に)運動や発声が反復して起こる病態で、それぞれ運動性チック、音声チックと呼ばれる。

 

とされています。

 

 

要するに、身体の一部が勝手に動いてしまったり、言葉が勝手に出てきてしまったりする症状です。

 

 

勝手に、というところがポイントです。

 

 

本人はそうしようと思っていない→でもいろんな人から突っ込まれる→意識して動かないように、発さないようにする→これが難しい…→本人もどんどん困るようになる→劣等感、自己効力感の低下

 

 

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という流れが作られやすいのです。

 

 

周りの人、学校、職場、社会の理解が求められる症状のひとつだと思っています。

 

 

 

運動性チックの種類

 

 顔面や首、肩などの筋が不随意的に収縮を繰り返す。

 

まばたき、顔しかめ、首振り、うなずき、口ゆがめ、etc。

 

 

音声チックの種類

 

 ンンン、という声や鼻をすする、咳払い、ぶつぶつ言う、どなる、鼻を鳴らす、etc。

 

複雑性チック

 

 上記の症状は単純性チックと呼ばれるもので、他にも複雑性と呼ばれるものもあります。

 

 

〇言語性の複雑性チック

 

  • 単純性チックの組合せ(頭をふることと肩をすくめることなど)
  • 汚行:性的または卑猥な身振り 
  • 反響動作:他の人の動きをまねる

 

 

〇音声の複雑性チック 

 

  • 汚言:社会的に不適切な言葉(卑猥な言葉や人種差別的な言葉)を発する
  • 反響言語:自分または他の人が発した言葉や音を繰り返す
 

 

 

 

 
 
 
 

チックの経過 

 

 

チックは子どもによくみられますが、大抵は一過性です。

 

 

18歳まで(典型的には4~6歳の間)に始まり、およそ10~12歳の間に症状が最も激しくなり、青年期に入って減少、そして、ほとんどのチックはやがてなくなります。

 

 

しかし、少数の例(約1%)では大人になっても重度のまま続いたり、悪化したりする場合があります。

 

 

男児の方が発症しやすいとされており、性差は2:1~4:1の範囲と言われています。

 

 

 

原因

 

 

基本的には原因は判明していません。

 

 

家族内に多発する傾向があるため、遺伝的因子が関与していると考えられてはいます。

 

 

元となる原因は分かりませんが、症状が出やすくなる原因はわかってきています。

 

 

症状の悪化には不安、興奮、強い疲労感、ストレスなどが関わっており、逆に、落ち着いて集中している時、リラックスしている時は改善することが多いということです。

 

 

また、これも原因ははっきりしていませんが、チックのある小児には、ADHD強迫性障害、不安障害、うつ病学習障害など、他の症状や障害が見られることも多いとのことです。

 

 

 

トゥレット障害

 

 

チック障害の派生なので、覚えてもらいたいです。

 

 

定義は、

 

多種類の運動チックと1つ以上の音声チックが1年以上にわたって続くチック障害。

 

とされています。

 

 

基本的には『チック症状が多種類に渡っており、かつ慢性化していること』という理解でいいと思います。

 

 

 

治療についてとまとめ

 

 

基本的には抗精神病薬による薬物療法が一定の効果を示します。

 

 

また、特に長期化している方は、二次的に抑うつ感、劣等感、対人不安感、社交不安感、神経質などの症状を呈することも多いため、そちらに対する支援やケアも必要になります。

 

 

そして、もっとも大切なことが環境調整です。

 

 

つまり、「チックとは、トゥレットとは」ということを周りの人に対して説明し、理解を求めるという事です。

 

 

冒頭でも述べたように、日本は圧倒的に障害に対する理解がたりていません。

 

 

ぼくのところに来た患者さんも、理解がきちんとなされている職場であれば、変にからかわれたりすることはなく、自身の症状を気に病むこともなく、休職に至ることもなく、働き続けることができていたかもしれません。

 

 

障害は(精神疾患に関しては特にそう)、当事者が作っているものではなく、社会が作っているということが往々にしてあるとぼくは思っています。

 

 

色々な人の話を聞いて、最近はそれを強く思うようになりました。

 

 

つまり、逆に、障害(者)に対して理解のある環境、社会であったら、障害(者)は減るのではないでしょうか

 

 

少しずつ、理解を広めていけたらいいなぁ。

 

里親制度~子どもは社会で育てよう~

こんばんは。

 

 

ぼくが住んでいるところはすっかり寒くなり、街は雪化粧をしております。

 

 

土日は家からほとんど出ず、ごろごろしていました。

 

 

借家ですが、こうした自分の空間があるって幸せなことだなぁ、としみじみ思います。

 

 

ところで、みなさん里親制度というものを知っていますか?

 

 

聞いたことはある!って人は多いと思いますが、現状や具体的な制度を知っている人って意外と少ないような気がします。

 

 

前の記事↓でも書きましたが、ぼくは教育大の福祉学のコースに属していました。

 

 

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また、実は、実家の両親は里親をしています。

 

 

さらに言えば、児童相談所の一時保護所*1で働いていたこともあり、関わった子どもたちが里親に引き取られていくところを見ていました。

 

 

そんなこんなで、里親制度はぼくの大きな関心ごととして在るのです。

 

 

今日はそんな里親制度について少しご紹介したいと思います。

 

 

 

 

社会的養護

 

 

里親について話す前にまず、社会的養護という言葉について話さなければいけません

 

 

社会的養護とは、親と⼀緒に暮らせない⼦どもたちを公的な責任のもとで社会的に養育することです。

 

 

その手段は、大きく①乳児院*2児童養護施設*3(要は施設)と②里親・里親ファミリーホーム*4に分けられています。

 

 

そして、日本には約45000人の社会的養護の子どもたちがいます。

 

 

その子どもたちを施設制度と里親制度の2つの手段で養護しているのです。

 

 

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日本子ども支援協会より

 

 

上の画像を見てもらえばわかるのですが、そのほとんどは施設制度でカバーされています。

 

 

カバーされている、とは言いましたが、現状施設での養護も上手くいっているとは言い難く、改善が待たれます。

 

 

今回は里親制度についての記事なので、そちらは割愛しますが、また別記事でご紹介できればと思います。

 

 

 

 

 

 

里親制度について

 

 

それでは里親制度についてお話ししたいと思います。

 

 

まず、日本子ども支援協会のHPには

 

様々な理由で親と暮らせない⼦どもたちを、家庭環境の下で養育する制度です。
家庭での⽣活を通じて、⼦どもが成⻑する上で極めて重要な特定の⼤⼈との愛着関係の中で養育を⾏うことにより、⼦どもの健全な育成を図ります。

 

と、あります。

 

 

施設での養護に対して、各家庭で養育するという形ですね。

 

 

里親の種類

 

里親制度にはいくつか種類があります。

 

 

細かく説明していくと、一つ一つが長くなってしまうので、ざっくり説明させてもらいます。

 

 

また、里親には手当が出ますので、そちらの金額も併せて載せておきます。

 

 

①養育里親

 原則として0歳~18歳まで(進学しなかった場合は中学卒業まで)の要保護児童を一定期間養育する里親。場合によって20歳まで延長あり。基本的には、実親の元で暮らすことができるようになるまで。

 里親手当: 児童1人あたり 月額 72,000円(2人目以降 36,000円)

 

②専門里親

 虐待された児童や非行等の問題を有する児童、及び身体障害児や知的障害時児など、一定の専門的ケアを必要とする児童を養育する里親。基本的には2年間。家庭への家庭復帰や家族再統合、自立支援を目的とする。

  里親手当: 児童1人あたり 月額 123,000円(2人目以降 87,000円)

 

 

③特別養⼦縁組⾥親

 原則6歳未満の養子となるお子さんの実親(生みの親)との法的な親子関係を解消し、実の子と同じ親子関係を結ぶ制度。

 里親手当: なし

 

④親族里親

 3親等以内の親族(祖父母、叔父、叔母など)の児童の親が死亡、行方不明、拘禁、入院や疾患などで養育できない場合の里親のこと。児童の精神的な負担を考慮し、養育里親よりも親族里親が優先されることが多い。

 里親手当: なし

 

①~④については手当の他に生活諸費として以下の金額が支給されます。

 乳児:1人あたり 月額 54,980円

 乳児以外:1人あたり 月額 47,680円

※上記の他に、教科書代や通学費、進学準備金や医療費の実費なども支給。各自治体によって異なる。

 

⑤季節・週末里親

 お正⽉や⻑期休みの、週末などに数⽇〜1週間程度、⼦どもを家に迎える⾥親。

※地域によって呼び⽅や仕組みが異なる。

 

 

 

 

意外と種類多いですよね!

 

 

知らないものもあったのではないでしょうか。

 

 

以後、この記事でいう『里親』は、ほとんど『養育里親』を指していると思って読んでいただけたらと思います。

 

 

 

施設養護との比較

 

 

一般的に、あるいは心理学的にも、施設などで『多数の子どもの中のひとり』として育てられるよりも、各家庭の中で『自分だけを見てくれている』という経験・感覚は健全な発達に必要とされます。

 

 

自分の存在が受け入れられている、愛されているという感覚が、自己肯定感や基本的信頼感に大きく影響するということですね。

 

 

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つまり、理想としては施設等での養護よりも、家庭養護の割合が多いことが望まれるということです。

 

 

しかし、現状日本での社会的養護の割合は、上の画像が示す通り施設:里親=8.7:1.3です。

 

 

諸外国と比べると明らかに施設偏重が目立ちます。

 

 

日本と諸外国の差について、今ここで「なぜか」と論ずるつもりはありませんが、諸外国と比べると明らかに家庭養護が少ないという現実は受け止めなければいけないでしょう。

 

 

諸外国では、『施設養護は家庭養護で保護しきれない場合のやむを得ない選択として機能すべき』とされているので、日本のこのような施設偏重は海外からも批判されているそうです。

 

 

乳児院(1歳未満の乳児の養護をする施設)に関して言えば、諸外国ではもはや廃止されていると聞きます。

 

 

少し古いですが、データがあったので載せておきます。

 

 

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里親は日本ではあまりイメージがよくない印象を受けます。

 

 

www.news-postseven.com

 

上記のような里親が里子を虐待するというニュースが時折聞かれることや、日本において『血の文化』というようなものが根強く残っており、血縁関係にない子どもを育てることに対する偏見も色濃く残っていることも、里親理解が広まらない原因かもしれません。

 

 

しかし、既に述べましたが、家庭養護の方が子どもは生育のためにいい環境で育つことができます。

 

 

特に、施設で集団生活をするのには難しい要因(被虐待経験、発達障害傾向、愛着障害傾向など)を持つ子どもの場合はなおさらです。

 

 

できることならば、この割合が少しずつ逆転していくことを願います。

 

 

大事なことは、社会的養護が必要な子どもが45000人もいて、その子どもたちは社会で育てていかなければならないという意識を持たなければいけないことです。

 

 

具体的に何をするわけでもなくとも、関心は向けていきたいところだな、と個人的には思います。

 

 

 

里親になるには

 

 

里親になるには基本的に以下のチャートにしたがって動くことになります。

 

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日本子ども支援協会より

 

登録までは大体、半年程度かかるようです。

 

 

興味のある方は覚えておいていただけたら幸いです!

*1:虐待、置去り、非行などの理由により子ども(おおむね2歳以上18歳未満)を一時的に保護する施設。親の元に返せないと判断された場合、施設や里親委託となる。

*2:1歳未満の乳児の養護

*3:1歳以上18歳未満の児童の養護

*4:小規模住居型児童養育事業。里親のうち多人数を養育するものを事業形態とし、 相応の措置費を交付できる制度としたもの。

発達障害を考える② 基本編

こんばんは〜

 

 

先週末は私事でバタバタしており、記事を更新する暇がありませんでした。

 

 

記事を更新したくて仕方がなかったので辛かったです(笑)

 

 

11/30に第一回公認心理師試験(心理業界初の国家資格)の結果発表があり、なんとか無事合格しておりました。

 

 

第一回だったので何もわからない中の試験で、正直不安しかなかったのですが受かっててよかったです。

 

 

資格が増えたからと言っていきなり何かが変わるわけではありませんが、臨床心理士がカバーしていなかった領域もしっかり勉強していきたいと思います。

 

 

全然関係ないですがgoogleアドセンスにも合格しました(笑)

 

 

 

 

さて、本題入ります!

 

 

前回の記事では発達障害に対する自分の考え方や捉え方を書かせていただきました。 

 

 

発達『障害』は『障害ではない』という私見を語らせてもらっています。

 

www.cpheco.xyz

 

 この記事の中で、発達障害という言葉だけ独り歩きしている印象を受ける」と書きました。

 

 

どういうことか。

 

 

要するに、『言葉は知っているけど、正しく理解している人が少ない』ということです。

 

 

日本において、発達障害という概念は比較的新しいと言わざるを得ません。

 

 

なので、日本国民全員が正しく理解するには、もうしばらく時間がかかると思います。

 

 

今はその過渡期なのかな、とも思います。

 

 

なので少しでも理解が進むように、今回は、『発達障害って結局なんなん?』というような、より基本的なところを書かせてもらいたいと思います。

 

 

 

 

 

発達障害の定義

 

 

発達障害者支援法では

 

自閉症アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害学習障害注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの

 

と定義されています。

 

 

…んー、なんか言い回しが少し古いような…

 

 

と思って中身を覗いたら、【平成15年3月の「今後の特別支援教育の在り方について(最終報告)」参考資料より作成】とありました…

 

 

15年前の言葉や定義をずっと使ってるのかよ…そう思わざるを得ないですよね。

 

 

でもまぁ、要するに発達障害とは、自閉症アスペルガー症候群、広汎性発達障害学習障害(LD)、注意欠陥多動性障害(AD/HD)などを含んだ広い意味の言葉として使われている』ということですね。

 

 

さらに広義な学術的分類だと知的障害も含む場合がありますが、ここでは含まないで話をすすめますね。

 

 

 

分類

 

 

自閉スペクトラム症(ASD)

注意欠陥多動性障害(AD/HD)

学習障害(LD)

 

基本的には大きくこの3つに分類されると思います。

 

 

以下、カッコ内の言葉で表記させてください。

 

 

 

それぞれの症状は、また別の記事で丁寧に説明させてもらいたいと思いますが、ひとつだけお伝えしておきたいことがあります。

 

 

それは、①ASDという言葉に関して、「広汎性発達障害とかアスペルガー症候群とか言われた(聞いたことある)んだけど、今は使われないの?」という疑問に対しての返答です。

 

 

 

先ほど文部科学省の定義のところでも「少し古い」と書いたように、少し前までは高機能自閉症アスペルガー症候群広汎性発達障害という言葉が使われていました。

 

 

最近は減ったように思いますが、日本においてはアスペルガー症候群のことを『アスペ』と揶揄し、その言葉が相手を罵るために使われていたという悲しい現実があるため、ネガティブなイメージがついて回る言葉になってしまったようです。

 

 

一応、現在もこの言葉達が無くなったわけではないのですが、今は自閉スペクトラム症ASDと言われることのほうが圧倒的に多くなった印象です(当事者や支援者の中では)。

 

 

アスペルガー症候群などの言葉はICD-10*1という世界保健機関(WHO)が作成した病気や障害の分類から来ているのですが、これは日本においては2003年から更新されていません。

 

 

一方、アスペルガー症候群高機能自閉症などの小分類をなくし、ASDで単一化したのがDSM-5です。

 

 

DSM*2アメリカ精神医学会が作っている、心の病気に関する診断基準のことで、現在使われている第5版は2014年に出ています。

 

 

第4版まではDSMアスペルガー症候群などの小分類をしていましたが、割と最近変わったんですね。

 

 

まとめると、ICD-10にしたがうならアスペルガー症候群なども使われるけど、DSM-5にしたがうならASDで括られる、ということですね!

 

 

この分類はどっちが正しい、とかではなく、どう理解するかだと思うのですが、個人的には健常者と呼ばれる人も括ろうと思ったら括れるスペクトラムという概念が好きなので、DSM-5の『ASDでまとめてしまうという考え方』のほうが好きです。

 

 

このあたりの話はASDについての別記事で話したいと思います。

 

 

 

 

 

 

原因は?

 

 

先ほどの文部科学省の定義の中で、「脳機能の障害」とありました。

 

 

発達障害の原因は、未だわからないことの方が多いそうです。

 

 

 

しかし、脳の内側前頭前野や脳幹の働きが通常より弱く、神経伝達物質セロトニンオキシトシンというホルモンの分泌が少ないことが原因の一つじゃないか、ということはわかってきたようです。

 

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そして、これらの脳機能が弱いのは遺伝要因が大きい、ということも明らかになってきています。

 

 

遺伝要因が大きいという事は、親も発達障害の可能性もあり、結果的に環境要因にも関わってきます。

 

 

個人的には、まるっきり遺伝要因オンリーなのは重度の方だけで、軽度の人にとっては環境要因もそれなりにあるのではないかと考えています。

 

 

ただ、ここら辺は程度の問題もあるので、一概に「こうだ!」と明言しにくいところだと思います。

 

 

大切なことは、その特性をどう理解するか、そして今後どのように特性を活かしていくか、あるいは対処していくかを考えることかと思います。

 

 

 

国や社会を嘆き、恨みたくなる気持ちはよくわかります。ほんとに。

 

 

しかし、そう簡単に障害者のために変わってくれないのがこの国です。

 

 

今ある環境の中で、できること、したいことを探していきましょう。

 

 

 

※発達『障害』という呼び方は好きではありませんが、記事の中では敢えて発達障害という言葉を使っています。中身は『発達障害発達障害と呼ばれる人』のことです。

*1:International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems:異なる国や地域から、異なる時点で集計された死亡や疾病のデータの体系的な記録、分析、解釈及び比較を行うため、世界保健機関憲章に基づき、世界保健機関(WHO)が作成した疾病及び関連保健問題の国際統計分類

*2:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disordersの頭文字をとった略称。世界的に広く用いられており、日本では「精神障害の診断と統計マニュアル」「精神疾患診断統計マニュアル」などと呼ばれる。

発達障害を考える①

こんにちは~

 

 

いつの間にか10記事超えていました。

 

 

びっくりしました(笑)

 

 

今日のテーマは『発達障害』です。

 

 

そろそろ、知らない人がいないくらい認知されてきている『障害』となってきているのではないでしょうか。

 

 

①とさせて頂いたのは、②③の予定があるわけではなく、今後も考えていきたいテーマだからです。

 

 

※発達『障害』という呼び方は好きではありませんが、記事の中では敢えて発達障害という言葉を使わせてください。中身は『発達障害発達障害と呼ばれる人』のことです。

 

 

 

 

 

 

 

発達障害者は増えているのか

 

 

発達障害と呼ばれる人は、データだけ見ると、年々増加しています。

 

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これは平成25年のデータですが、10年で約3.5倍に増えています。

 

 

ちなみに、いわゆる『おとなの発達障害』の統計データは見つかりませんでした。(誰か知ってたら教えてください)

 

 

発達障害は子どもの問題だ、と考えられてきたことがその原因かと思います。

 

 

実際、精神科医も『おとなの発達障害』には弱く、二次的な抑うつ感などに焦点を当てるのみで、発達障害と気付きもしない医者も多くいる印象です。

 

 

さて、話が少しそれましたが、本当に発達障害の人は増えているのでしょうか。

 

 

結論から言うと、実際にそういった傾向を持つ人が増えているということは否めません。

 

 

様々な要因が重なって特性が発現していることを考えると、現代の環境が特性を促進している可能性は否定しきれないからです。

 

 

日本という国、日本人という民族は発達障害を誘引しやすいと感じています。

 

 

これはまた別の記事で話したいと思います。

 

 

しかし、それ以上に、発達障害の人自身も、周りの人も発達障害に気付けるようになったことが大きいと思います。

 

 

一昔前は大多数の中に埋もれてしまっていた特性にスポットが当たり、「もしかしたら自分は…」「もしかしたらあの子は…」と気づけるようになった。

 

 

今まで見過ごされてきたそれらの特性に気付けるようになり、「なにか対処を…」と、自分も周りも悩んでいるのが現在だと思います。

 

 

発達障害という言葉はここ10数年で、特にここ数年で大きく浸透した印象です。

 

 

しかし、言葉が独り歩きしてしまい、中身の理解がいまひとつ追い付いていないという印象も受けています。

 

 

当事者、その家族、周りの人、全国民、ひとりひとりが正しい理解をしなければ、現状はなかなか変わらないと思います。

 

 

ぼくは、こうして記事にすることで理解を深めていきたいと考えています。

 

 

これはおかしい、もっとこう言った方がいいんじゃない?という意見、お待ちしています。

 

 

 

発達障害って

 

 

はじめに注意書きでも書いたように、ぼくはこの発達『障害』という言葉が好きではありません。

 

 

むしろ嫌いです。

 

 

多くの人ができることをできないから『障害者』、という考え方には違和感を覚えます。

 

 

得意なこと、苦手なことは誰にだってあります。

 

 

個人的には、発達障害と呼ばれる人の特性も、範囲や程度に違いこそあれ、『個性』の範疇だと思っています。

 

 

発達障害の人は『障害』扱いをされても、『個性』と呼ばれても気持ちよくないそうです。

 

 

もちろん、受け止め方は人それぞれですが。

 

 

『障害者』と呼ばれたくないのは理解できます。

 

 

ぼくも『障害』と呼びたくありませんし。

 

 

では、なぜ『個性』もそんなに嬉しくないのか。

 

 

それは個人や一部の理解者が『個性』と言っても、周りの人や日本社会がそう見てくれない、という現状があるからだと思います。

 

 

要するに、実際に、現実に、困っていることが多いから、だと思います。

 

 

こんなに困ることが多いのに『個性』なんて言葉で片付けられてたまるか、ということです。

 

 

困っている内容は人それぞれですが、たいていの場合、『ふつうの人が当たり前のようにできていることが、できないこと』で困ることが多いと聞きます。

 

 

では、どうすればいいのか。

 

 

「できないことをできるようになれ」と言うのは酷です。

 

 

人間誰でも苦手なことがあります。

 

 

例えば、ぼくはあまり器用な方ではなく、折り紙で鶴が折れません。

 

 

練習すればできなくもないでしょうが、そこには折り紙を簡単にできる人が使うエネルギーの数倍のエネルギーを注がなければいけません。

 

 

当然疲れますよね。

 

 

そして、折り紙に対して自信がなくなっていき、終いには折り紙そのものに対してモチベーションがなくなったり、避けるようになります。

 

 

少し例がしょぼいかもしれませんが、簡単に言うとこのようなことが生活や社会適応に関わる面で多く、深く起こっているのが発達障害と呼ばれる人の特徴です。

 

 

彼ら、彼女らはできないわけではなく、大多数の人よりもそれをするためのエネルギーを多く使うのです。

 

 

ここ、とっても大事だと思います。

 

 

発達障害の特性

 

 

また、発達障害と一口に言っても、その特性は様々です。

 

 

苦手なことの例は、片付けが苦手、音に敏感、人付き合いが苦手、金銭管理がへた、先の見通しが立てられない、etc。

 

 

逆に、ひとつのことを集中してやり続ける、真面目でルールをしっかり守る、自分の興味分野のことでは突出できる、など、うまく活かせれば強みとなる特性もたくさんあります。

 

 

感覚の過敏さをうまく使い、ソムリエや料理評論家になった人もあると聞きます。

 

 

モーツァルトアインシュタインなど、なにかひとつのことにこだわりを持ち、突き詰めた人たちもいます。

 

 

ただ、最近誤解されているな、とよく感じるのは、「じゃあ発達障害の人って天才なんだ」という発言です。

 

 

天才と呼ばれるような人はもちろんいますが、限られた一握りでしょう。

 

 

モーツァルトアインシュタイン発達障害の特性だけで偉人と呼ばれるに至ったわけではありません。

 

 

細かいことはぼくにはわかりませんが、音感や知能など発達特性では説明がつかない才能があったんでしょう。

 

 

健常者と呼ばれる人だって、天才もいれば苦手なことが多い人もいる、勉強ができる人もできない人もいる。

 

 

みんなそれぞれ違います。

 

 

発達障害と呼ばれる人も、みんなそれぞれ違います。

 

 

もっと大きいくくりで言えば、同じ人間ですが、それぞれ違いますよね。

 

 

大切なのは、個々人の違いを全員が認め合い、苦手なところを補い合うことじゃないかな、と思います。

 

 

みんなちがってみんないい / 金子みすゞ

 

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いい詩ですよね。ほんとに。これに加えてもう1フレーズ紹介します。

 

 

good fiends / BUMP OF CHICKEN

 

きっとさ仲良くできると思うんだ

どれほど違っても これほど似ているから

 

 

 

 

 

 

意見等ある方はこちらにコメントしていただくか、twitterでリプライをどうぞ(^O^)

対人援助職に必要な考え方【ゆらぎ】

こんにちは~

 

 

お久しぶりです。

 

 

だんだん更新が遅くなっていますね(笑)

 

 

のんびりやります(笑)

 

 


今日は『ゆらぎ』という概念?考え方?をご紹介したいと思います。

 

 

これは教科書に載っているようなものではないですが、感覚的にはみなさん知っていることではないかと思います。

 

 

臨床場面でも、教育場面でも、デスクワークでも、人間関係でも必要な概念だと私は思っています!

 

 

 

この言葉を教えてくれたのは、大学の時にお世話になっていた大阪教育大学の新崎国広准教授です。

 

 

福祉が専門の先生で、『福祉は、“”だんの“”らしの“”あわせ』という名言を残しています。

 

 

余談ですが、私は大学の頃は人間科学科の発達人間福祉学コースでした。

 

 

心理学は専門じゃなかったので 、大学院受験は大変でした(笑)

 

 

さて、その新崎国広准教授ですが、とてもアツい人でした。

 

 

講義中、実際に車椅子に乗せたり、目隠しをして校内を移動させたり、実際に重度の障害者さんを講義に連れてきて学生とディスカッションさせたり、動きのある授業が多かったように思います。

 

 

どんな先生かは下記のリンクから30分のミニ講義が受けられるので見てみてください。

 

 

子ども達の未来を育む教育協働人材になろう| 大阪教育大学 新崎 国広 教授 | 夢ナビTALK

 

 

『子どもたちの未来を育む教育協働人材になろう』というテーマです。

 

 

これからは教員だけが子どもを教育する、という考え方ではなく、地域住民や福祉職、心理職が協働していく必要がある、ということですね。

 

 

もっと言えば、『教育』って学校での話でしょ?って思いがちだけど、もっと広義の『教育』もあると思います。

 

 

近いところで、給食センター、図書館、文房具屋、少し離れてゲーム会社、出版社、アパレル、インターネット事業者、果ては建築会社や車メーカーも、子どものことを考えたモノづくりをしているという意味では教育に関係があると思います。

 

 

そういう広い意味では、今後の教育を考えることは社会を考えることと言って過言じゃないと思います。

  

 

 

話がまったく本題に触れていなかったので戻ります(笑)

 

 

『ゆらぎ』ですが、要は『迷う』ということです。

 

 

戸惑いや迷いのようなはっきりとしない、答えが出せない感覚や心の動きのことです。

 

 

例えば、ぼく(臨床心理士)の場合、ある患者さんとのカウンセリングにおいて『この人はこう見立てられるから、このアプローチがいい』と考えて、そのアプローチを実践します。

 

 

しかし、ここで『いや、でも待てよ、ほんとにこれでいいのだろうか、もっといいアプローチはないか?』と自問自答します。

 

 

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この『もっといい方法はないか』と迷い、悩むことを『ゆらぎ』と定義します。

 

 

これはその場で起こることもあれば、後から起こることあります。

 

 

起こらないことはまったくと言っていいほどありません。

 

 

「迷ってたらあかんやん」「経験が少ないからじゃない?」このような意見が出るであろうことは想像できます。

 

 

もちろん、ぼくの経験不足は否めませんし、援助者側が迷ってたら被援助者は不安になるということもわかります。

 

 

また、こんなことを言っていますが、専門家としてそれなりの自信を持ってアプローチを選択しているつもりでもあります。

 

 

しかし、それでもなお、『もっといい方法は』と求める気持ちこそが『ゆらぎ』に繋がっていると思います。

 

 

現状のアプローチや方法論に満足していたら、それ以上の進化は望めません。

 

 

「もっと理解が深まる、わかりやすい教え方はないだろうか…」と自問する教員や、「もっと効率のよい事務処理の仕方は…」など、現状が最善と思わず先を求める気持ち、それこそが『ゆらぎ』なのです!!

 

 

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だから私は、仕事のことで悩んだり、人間関係で悩む人に対して『それをもっと良くしようとする気持ちがあるから悩んだり迷ったりしてるんだよね。どんどん迷ったらいいと思う』と、敢えて迷うことを推奨したりもします(笑)

 

 

もちろんケースバイケースですが。

 

 

どうしたらいいか一緒に迷うことも私の仕事だと思ってますし、その迷いから抜け出し、より高次元の『ゆらぎ』を求めるお手伝いもしたいです。

 

 

みなさん、どんどんゆらいじゃいましょ〜(~'ω' )~

臨床心理士の年収って結局多いの?少ないの?

こんにちは~

 

小指の傷はほとんど治ってきました。

 

もうすぐ抜糸です。

 

抜糸、痛いんですかね…

 

 

 

はい!今日のテーマは、ずばり収入についてです。

 

よく「臨床心理士は薄給だ」「食えない」「そもそも仕事がない」と言われていますが、実際のところどうなのか…

 

結論から言います!

 

ピンキリです(笑)

 

いや、そらそうやろ、って思うかもしれないけど、他の職よりもはるかにピンキリレベルが高いんです。

 

ピンキリレベルってなんやねん、って感じですが。

 

介護士ならこのくらい、看護師ならこのこのくらい、教師ならこのくらい、医者ならこのくらい、とどの専門職もある程度は収入の幅が予測できますよね。

 

でも、臨床心理士は本当に、人によって全然違うんです。

 

それはどうしてか。

 

そこら辺をお答えしていきたいと思います!

 

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仕事がない?

 

ネット上などでは臨床心理士『仕事がない』とさんざん言われています。

 

ただ、この言葉は、実は正確ではありません。

 

正確には『常勤職の求人がない』です。

 

正社員として毎月基本給手当をもらい、会社にもよるけど賞与があり、毎年少しずつでも昇給がある、そんな会社に勤めている臨床心理士は全体の1~2割と言われています。

 

常勤で働いている臨床心理士は、会社にもよりますが年収350~400万程度からスタート、といったところでしょうか。

 

ただし!臨床心理士資格を取るには大学院を出ていなければいけないことは以前にも記事にしました!↓ 

www.cpheco.xyz

つまり、大学院に行っている分の2年間は出遅れてのスタートになるわけです。

 

収入を語る上でこの2年間は無視できないと思います。

 

この2年間を『必要な経験』として見てくれる会社ならいいのですが、会社によっては『新卒』として扱われます。(うちもそうです)

 

これには絶望しました…

 

臨床心理士資格を持っている人を対象として求人を出しているのに、最終学歴は『大学卒から』なんです。

 

大学院に行っていない臨床心理士なんて今やほとんど存在しないのに…

 

とまぁ、そんなわけで収入的にも時間的にも一般的な就職ルートからはだいぶ出遅れます。

 

大学院に行くにも費用がかかりますしね…

 

常勤の仕事は、総合病院や精神科単科病院の心理士、公務員心理職、福祉施設の指導員や相談員、企業の産業カウンセラーや人事部、EAP*1担当のカウンセラーなどですかね。

 

 

私感ですが、企業などに勤めると仕事量が多くなり、残業が多くなるイメージがあります。

 

ただ、残業手当の分給料は高い傾向にある印象です。

 

 

 

非常勤のお仕事

 

常勤の求人が少ない反面、非常勤のお仕事は、意外とたくさんあります。

 

有名なところでいうと、スクールカウンセラーも非常勤の心理職ですね。

 

その他、クリニックや総合病院の心理士、教育委員会の教育相談員、公的機関の発達相談員、福祉施設の指導員など。

 

中堅以上になると講演や研修で臨時的な収入を得ている人も一定数居ると思います。

 

大学の非常勤講師などされている方もいますね。

 

最近では療育*2などの施設が増えていて、そういう施設での発達心理相談員のような仕事が常勤、非常勤ともに増えているような気がします。

 

時給ですが、スクールカウンセラーなら5000円強、教育相談員なら3000円前後、病院やクリニックの非常勤心理職は1000~1500円程度、福祉施設に至っては1000円を下回るところもあります。

 

療育は常勤なら月給20万前後、非常勤なら時給1000~1500円といったところですかね…

 

これを多いとするか少ないとするかは人それぞれですが、大学院まで出て、それなりに専門性を身に付けても、この程度です。

 

学生の家庭教師のアルバイトの方が時給が高いということもあり得ますね…

 

 

非常勤の年収

 

年収は上記のような仕事を週に何日、何時間するかによって全然違ってきます。

 

時給の安いところを1つだけしている人なら当然年収もそれなりでしょうし、スクールカウンセラーを何校か掛け持ちしている人は350万~だったりします。

 

自分の休みを削って週6日、7日働けばその分年収は増えます…

 

 

 

結論

 

やはり高いとは言えないですね(笑)

 

ただ、そんな絶望的なくらい低いか、と言われたらそんなことはないと思います。

 

自分が何を選択するかで、大きく変わってくる職だと思います。

 

常勤職に就けば平均程度は稼げますし、主婦業の傍ら非常勤の仕事をするという選択をしている方も多いと思います。

 

そもそも臨床心理士資格を持っている方の75%は女性なので、非常勤を敢えて選択しているということもあるかなーと思います。

 

いろんな分野を経験してみたいから、という理由で非常勤掛け持ちをしている方もいらっしゃいますし。

 

もしこれから臨床心理士を目指すという人はネットで検索したら出てくる『年収200万~300万がほとんど!』みたいなパワーワードに踊らされないようにしましょう!!

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:Employee Assistance Program(従業員支援プログラム)の略で「働く人のメンタルヘルスケア

*2:障害のある子が、社会的に自立できるように取り組む治療と教育のこと

【書籍レビュー】甘えの構造/土居健郎

こんにちは。

 

今日は心理学的にも一般書としても有名な『甘えの構造』についてレビューしたいと思います!

 

これも以前記事にした『夜と霧』と同じく読みたかった本のひとつです。

 

以前の記事はこちら↓ ついでに読んでくれたら嬉しいです\(^o^)/

 

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『「甘え」の構造』って?

 

 

心理学者の書いている名著としてあまりにも有名な本のことです!

 

この本の作者は精神分析医として有名な方で、心理学の世界では名前を知らない人いない(たぶん)ほどの人です。

 

そしてこの人を有名たらしめたのが、この本の存在です。

 

ざっくり要約すると「甘え」という日本人特有の精神構造を解き明かすことで、いわば「日本人論」「日本人観」について論じている本です。

 

どちらかと言うと、精神構造そのものよりも、そちらに重きが置かれている印象で、だからこそ多くの文化人類学者や社会学者に読まれる本ともなったいるのでしょう。

 

何か国語にも翻訳され、日本人だけではなく、日本に興味のある外国人が日本人を理解するために読む本ともされているようですね。

 

内容は、正直難しいです(笑)

 

なんでもかんでも「甘え」で説明しようとするのも無理があるんじゃないかなーって思ったり、結局「甘え」の精神構造は?ってなったりしました(笑)

 

そんな本でしたが、分かる範囲で、できるだけ分かりやすくご紹介したいと思います。

 

 

「甘え」とは

 

まずこの「甘え」なる概念、驚くことに外国には存在しないらしいんです。

 

ただ、ここでいう「甘え」とは単純な『子が親に甘える』だけではない、深い意味があるようです。

 

例えば、

 

①誰かに何かを頼む

    ↓

②相手はそれに対して承諾してもいいし、断ってもいいはず。要は選択権があるはず。

    ↓

③相手がそれを断った時、そのことに対して不満を感じる

 

この③!不満を感じる心理!

 

もちろん不満に思わない場合もあります。

 

が、誰しもこういう場面を経験したことがあるのではないでしょうか。

 

その心理こそが、「甘え」に由来すると土居さんはおっしゃっているのだと思います。

 

上の例を簡潔にすると、「相手に選択権を与えておきながら、それが自分の意に沿わないと気に入らない」ということなのですが、この背景には『相手は自分のためにこれをしてくれるはずだ』という自己中心的な期待があるということです。

 

この自己中心的な他者に対する期待こそが「甘え」なのかな、と解釈できます。

 

これが欧米の場合だと(※筆者は日本から出たことがありません)、「OK. Also ask you.haha」みたいな感じでさらっと終わるのでしょうか。

 

そして、このような相手の行動を自己中心的に推し量り、相手がその通りに動くはずだという根拠のない自信が、個人の内に根付いているのが日本社会なのだと思います。

 

 

 

 

日本人は嫌われたくない人種

 

怒られる技術↓でも触れましたが、日本人は怒られたがらないですよね。

 

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 もちろんぼくもできることなら怒られたくないです(笑)

 

なぜ怒られたがらないのか。

 

それは他者に嫌われたくないから、という見方もできますよね。

 

 

少し話はそれますが、日本人は「申し訳ない」とい言葉をよく使いますよね。

 

何かしてもらった時に「ありがとう」だけではなく、「ごめんね、ありがとう」と「ごめん」をつけたり、「すまんね」と詫びの言葉を用います。

 

これは、その何かしてもらった際の労力に対して詫びを言っているのだと思いますが、なぜ詫びを入れる必要があるのか。

 

本書ではこの点について

 

詫びないと、相手が非礼と取って、その結果相手の行為を失いはしないかと恐れるためといえないだろうか。

すなわち、相手の行為を失いたくないので、そして今後も末永く甘えさせて欲しいと思うので、日本人は「すまない」という言葉を頻発すると考えることができる。

 

と述べられています。

 

つまり、相手の労力や迷惑を想像してまで詫びを言うのは、「今後も関係を続けさせてね」というメッセージを発信していることになり、これがすなわち「甘え」だということでしょう(たぶん)。

 

日本人はそういう意味で「甘え」たがりな人種で、ポジティブに言ったら人との関係を大事にする人種とも言えるのかな~とか考えていました。

 

土居さん自身は「甘え」を良いものとも悪いものとも定義しておらず、ただの特性のように思っていたと思います。

 

詫びとかクッション言葉とかは、日本においてはむしろ重要な社会的スキルと言ってもいいかもしれませんしね。

 

その他にも「遠慮」とか「内と外」と色々面白そうなネタがあるんですけど、長くなるし、たぶんうまく伝えられないのでここら辺でやめておきます(笑)

 

なんとなくでも「甘え」概念が伝わったらいいかな~と思って書いてるので!

 

時代が違うので「ん?」って思うところもありますし、文章が難しいのですが、機会と興味があったら是非読んでみてください~

 

 

ヘルプマーク、知って欲しい。

こんにちは。

 

てきとうにやろうと思っていたブログ、なんやかんやで頻繁に更新してしまっています(笑)

 

個人的に考えていたことや感じていたことを、こうやって表出するのって精神的な健康にも寄与している気がします。

 

そういえば、大学院時代の後輩が『日記をつけることによる精神的健康の促進について』みたいな(タイトルは超てきとうです)論文書こうとしてた気がする。

 

色々な思惑が胸中渦巻いているみなさん、ブログはじめましょ(笑)

 

 

では、本題です。

 

割と真面目なテーマです。

 

 

 

 

 

ヘルプマーク

 

みなさん、『ヘルプマーク』ってご存知ですか?

 

こんなやつです↓

 

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正直、ぼくは実際に見かけたことがなく、「こういうものがあるんだ」くらいの認識しかしてなかったのですが、患者さんが「ヘルプマークをつけてても助けてもらったり席を譲ってもらったことなんかない。」とおっしゃっていて、せっかくいいシステムなのに使わないのはもったいないな、と思って記事にしました。

 

これは、外見では障害があると分からなくても援助や配慮が必要な方が、援助が得やすくなるように作成されたマークです。

 

 

このマークの対象者は、義足や人工関節を使用している方、内部障害の方、難病や妊娠初期、精神疾患、知的障害、発達障害の方など様々です。

 

精神疾患、知的障害、発達障害の方も含まれる点にチェックです。

 

 

わかりにくくても、困り感を持っている人・助けを必要とする人がいます。

 

正直なところ、日本人の精神疾患発達障害に対する理解は十分と言えない状況で、素直に助けを求められる人が少ないのも事実だと思います。

 

極端に言ってしまうなら、『敵だらけの中でSOSを発信できるわけないやん』ってことです…。

 

 

そこで、このマークが登場します。

 

このマークの最大のメリットは、「わたしは、助けを必要としている人がいるなら助ける」という人が、このマークがあることで声なき声のようなものに素早く気付き、迅速に動けるようになることだと思います。

 

本当は、全国民が障害者と呼ばれる人に対しての意識が変わり、恥ずかしがることもなく、申し訳なさそうにすることもなく、堂々と助けを求められる社会ならよかったのですが…それはまだ、当分先のような気がします。

 

なら意識を変えるように動けや、とかどっかから飛んできそうですが、一番はじめの記事↓でも言ったように、ぼくはぼくの天井を知っていて、自分が社会を変えるなんて大層なことをできるとは到底信じられないので無理です(笑)

 

www.cpheco.xyz

 

でも、こうやって障害者と呼ばれる人の支えになる情報等を発信することで、少しずつ生きやすい社会になることを目指します。

 

行動が少しずつ変われば、意識も変わっていくと信じています!

 

はい、話がそれてますね(笑)

 

戻します!

 

ヘルプマークを実際に見かけたらどうするか

 

都道府県のHPなどにも載っているのですが、ある県の例を挙げると

 

・電車・バスの中で、席をお譲りください。
外見では健康にみえても、疲れやすかったり、つり革につかまり続けるなどの同じ姿勢を保つことが困難な方がいます。また、外見からは分からないため、優先席に座っていると不審な目でみられ、ストレスを受けることがあります。

 

・駅や商業施設等で、声をかけるなどの配慮をお願いします。
交通機関の事故等、突発的な出来事に対して臨機応変に対応することが困難な方や、立ち上がる、歩く、階段の昇降などの動作が困難な方がいます。

 

とのことです。

 

その他、何かしんどそうにしていたり困っていることがありそうなら「何かできることはありますか?」など声をかけていきたいところです。

 

また、ヘルプマークをつけている方は、こう言ってくれている人には遠慮しないで、素直に助けを求めて欲しいです。

 

 

ヘルプカード

 

同じようなツールにヘルプカードがあります。

 

こんなやつです↓

 

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これは、障害などのある人が困った時に、周囲の方に配慮や手助けをお願いしやすくするための情報を伝えるためのものです。

 

「手助けが必要な人」と「手助けできる人」を結ぶカードとも言えますね。


「ヘルプカード」の提示があったら、記載されている内容にそって、自分にできる支援をしましょう!

 

 

取得方法

 

取得、という言い方が正しいのかはわかりませんが、各市町村の障害福祉課で配布されていると思います!

 

障害者手帳の有無は問わないところもあるので、グレーと言われた方や診断がおりない方も、「わたしにもこれ必要かも」と思ったら問い合わせてみてください。

 

自治体で異なる点があると思うので、詳しくは問い合わせを(>_<)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

支援者こそプライベートが大事だと考える大きな理由

こんにちは~

 

このブログは臨床心理士の立場のぼく、として書いてきました。

 

そして臨床心理士はまごうことなく『支援者』の立場にあると思っています。

 

今日はその『支援者』というところに関する持論を展開したいと思います。

 

 

まず、今回のタイトル『べき』という言葉を使わせもらいました。

 

ぼくは本来この言葉を使うことをあまり好みません。

 

なぜなら、『しなければいけないこと』や『こうするのが正しい』ということは存在しないと思っているからです。

 

存在しないというより、人によって違う、という感じですね。

 

また、心理士は仕事柄か、あまり断定表現を好みません。

 

目に見えない心や感情、思考を扱うからです。

 

そんなぼくが、敢えて『べき』を使わせてもらったのは、ぼくが心理士を続ける上でこれだけは譲れない、というところだからです。

 

なので、この『べき』は一般化できるものではなく、あくまでぼく個人の『べき』だと思っていただけたらよいかと思います。

 

 

 

結論を言わせてもらうと『支援をする側は、なによりもまず、自身の健康に気を遣わなければいけない』ということです。

 

そして、ここでいう健康とは特に、精神的健康、あるいは精神的な安定感を持っていることを指します。

 

カウンセリングに行って、自分よりも具合の悪そうな人に話を聞いてもらいたくならないですよね。

 

極端に言ったらそんな感じです(笑)

 

では、それらの健康のために必要なのは何か。

 

個人的には、『余裕』だと思っています。

 

あるいは、ゆとりと言っていいかもしれません。

 

 

これは一般論としていいと思いますが、人は余裕がなくなると色々と雑になります

 

スケジュール調整、体調管理、食事、言葉使い、人間関係、etc.。

 

これはどうしてか。

 

時間的余裕の無さ、肉体的疲労、経済的な不安など、これらの様々な人から余裕を奪う要因』は、認知、思考、感情さまざまな精神活動を劣化させていくからです。

 

逆にそれらの、時間的余裕や精神的ゆとりがあると、視野が広がり、頭が回り、状況に適切に対処できるようになります。

 

だから、ぼくは余裕を作るために休みの日はしっかり休むし、プライベートを何より大事にするし、自分の好きなことをします。

 

プライベートの、自分にとってゆったりした時間、空間があるからこそ、支援に全力で向かえるのです。

 

心理職に限らず、対人援助職やその他の人と接する仕事をしている方は感覚的に分かると思うのですが、自分がしんどい時に他人の支援はできません

 

いや、できなくはないのですが、パフォーマンスは確実に悪いです。

 

自分の健康を管理できない状態にある人が、他人の援助ができるかと言われたら、やはり難しいと言わざるえません。

 

だからこそ、ぼくは声を大にして言いたい。

 

支援者としての最大限のパフォーマンスを発揮するためにも、まずは自身の健康やプライベートを大切にしましょう!!

 


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以上\(^o^)/

【書籍レビュー】臨床心理士として『夜と霧』を読んで感じた3つのこと

こんにちは~

 

今回は『夜と霧』のレビューです。

 

いやレビューという程大層なものでもないのですが(笑)

 

まぁ、感想みたいなものです。

 


この本は、言わずと知れた名書です。

 

NHKでも何度か取り上げられてたみたいですね。

 

読みたいと思ってなかなか読めていなかったのですが、最近ようやく読めました。

 

 


著者のヴィクトール・E・フランクル第二次世界大戦中の強制収容所での体験を詳細に語った手記であり、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺、いわゆるホロコーストの体験記です。

 

和訳タイトルの由来は『 夜と霧にまぎれてナチスが人々を抹殺する』といった意味で使っていた作戦名から来ているそうです。

 

ちなみに原著のタイトルは『心理学者、強制収容所を体験する』。

 

人間は何を見るのか、何を感じるのか、人間とは何か、死とは、人生とは…深く考えさせられました。

 

同時に、臨床的にも役立つ考え方がいくつか見受けられたので、今回はそちらの考察をしたいと思います。

 

歴史的な考察や哲学的な考察は多くの方がしてらっしゃるようなのでそちらを参考にしてください。

 

 

意味への意思

 


これを語らずしてフランクルは語れないですよね。

 

教科書にも出てくるような超有名な概念です。

 

強制収容所における被収容者は「無期限の暫定的存在」と定義されるとフランクルは言っています。

 

収容所の生活は、いつ終わるかわからないままに続きます。

 

つまり、無期限・無制限に暫定的な存在から何者にもなれない人間ということです。

 

また、

 

終わりに見通しがつかない人間は、目的をもって生きることができない。

 

とも記しています。

 

実際、臨床現場では「いつまでこの苦しみが続くのかの見通しが立てられない」「未来について考えることができない」という方がおられます。

 

このような状態にある人間を精神的に奮い立たせるには、何よりもまず未来や生そのものに目的を持たせる必要があります。

 

しかし、それでもなお「生きていることに、もうなんの期待も持てない」と諦める人も、現実にいます。

 

このような人になんと言葉をかけたらよいのでしょうか…。

 

ここで、フランクルの『意味への意思』が登場します。

 

フランクル曰く

 

わたしたちが生きることから何かを期待するのではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ。

もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問の前に立っていることを思い知るべきなのだ。

わたしたち(被収容者)にとって生きる意味とは~中略~苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。この意味を求めて、わたしたちはもがいていた。

 

いやー、もうここら辺は哲学めいてて、正直理解が及ばないところも多々ありました(笑)

 

でも、要するに、それは仕事だったり、家族だったり、他者だったり、物だったり、人によってそれぞれ違うけれど、『生きること』は各人に何かしらの要請をしていて、それに答えていくことが結果として生きる意味になる、みたいなことだと思います。

 

シンプルな『人間は生きる意味を求める生き物だ』みたいな教科書的説明では語れない高次元の概念だと思いました。

 

進むべき道に困った時や先に進めそうもないときは、『私の人生は私に一体何を要請しているのだろう』といつもと違った視点で考えることも有効かもしれませんね。

 

 

 

人間の精神的自由

 


フランクル強制収容所で約半年間生活をしていました。

 

そして、そこで生活する人間の心理を観察・分析していました。

 

多くの人はその厳しい環境に負け、というより適応するために感情を消滅させたり、暴走させたりしていた、そしてそれが至極当然だったと言います。

 

しかし、どんな人間も一様に同じような精神状態になったかと言われればそうではなく、「わたし」を見失わない英雄的な人の例も見受けられたとの事です。

 

本の中で出てくる

 

『通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲る人』

『自分のポケットマネーで薬を買ってくる監視官』

 

などがその一例です。

 

このような人の行動は、一般常識から考えると「あーそういう人いるよね。自己犠牲的な優しい人」みたいに見えるかもしれません。

 

ブログに書いてるとそこまで大した行動に映らないのは、残念ながらぼくの文章力のせいです。

 

本を読んでみるとわかるのですが、これはあり得ないことなのです。

 

上述した通り、過酷な収容所生活を送るうちに、普通は感情を消滅させたり、暴走させたりしていきます。

 

適応のためには、それが至極当然であることは読んでいく内に納得できます。

 

だがしかし、それでもなお、英雄的な行動を『選択』できる人がいるのです。

 

人間は身体的、精神的、社会的に規定された条件をものともせず、自分の自由を選択できるのです。

 

書いててわけわかんなくなってきた(笑)

 

でもまぁ、要は『どんな場所であっても最終的に自分を何者かにするのは自分』ということだと思います。

 

誰かに何かを言われたから、環境がそれを期待しているから、ではなく、最終的には自分が選択できるんだ!ということが言いたいのかと。

 

いや、違うかもしれないけど。

 

もっと深い感じなんだけど、うまく説明できない(笑)

 

とにかくぼくはここら辺を「なんか、人間色んなしがらみがあるけど、意外となんでもできるし、どうとでもなるし、自由なんだぜ?」みたいなポジディブな感じで解釈しました。

 

『親がこう言ったから』とか『この仕事、辞めたいのに辞められない…』とか言っても、最終的には色んなしがらみの中で自分自身が納得してそこを選んでいるはずです。

 

納得していないにしても、最終的に選んでいるのは自分のはずです。

 

現状に文句や不満があるなら、それは自分の決定に不満があるということだと思います。

 

人生は思っているよりも、きっと自由です。

 

自分が本当にやりたいことをやってみても誰も文句は言わないし、文句を言ってきたとしてもそれで死ぬわけではありません。

 

どう生きても、どう行動しても、自分と違う人しかいない世の中で、万人に受け入れられるという事はまずありえません。

 

万人に好かれるよりも、まずは自分を好きになれる生き方が大事だと、個人的には思います!

 

 

苦しむ勇気

 


思いのほか長くなってしまったんですけど、もう少しだけ続きます。

 

意味への意思でも述べたように、フランクルは人生からの意味を求めていました。

 

そして『現在の苦しみも人生から与えられた重要な意味を持つものなのではないか』と考えていました。

 

というより、「そうでなければつらすぎる」という心理だったとは思いますが…。

 

「後から考えるとあの苦しみや辛い経験は大事な糧となっている」

 

こんなセリフをよく見ますが、これも苦しみをただ『苦しみ』として終わらせたのではなく、『人生にとって意味のあるもの』に昇華させている、と言えるんじゃないかと思います。

 

また、

 

苦しむことは何かをなしとげること。

苦しみは抑圧したり、楽観視してごまかしたりするものではなく、課題としてやり通さねばいけないものだった。

『時には涙することもあった。だが、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。』

 

とも言っています。

 

苦しむ勇気

 

人は嫌なことや辛いという事実から目を背けがちです。

 

もちろん、それはそれでひとつの対処としては有効ですが、時には問題解決のためにそれらの苦しみと向き合うことも必要かもしれません。

 

また、強制収容所では苦しすぎる生活ゆえに『生を諦める人』も出たそうです。

 

点呼が始まっても動かず、ご飯の時間にも動かず、そのまま何もせず死んでいくそうです。

 

苦しんでいるということは、何かを諦めずに「どうにかしたい!」と心の奥底で思っていると言えると思います。

 

逃げずにそれらと向き合おうとしている証拠です。

 

今苦しいと思っている人は、どうかその苦しみを抱いていることを、諦めないで戦おうとしている自分を誇って欲しいと思います。

 

 

終わりに

 

ぼく個人としては、上記のような考察を得られたことがこの本に出会えた最大のメリットと言えるのですが、人によって見方は全然変わってくる本だと思います。

 

正直、全然伝えきれていないので、みなさんぜひ一度読んでみてほしいと思います。

 

 

 

他の方もレビューしているので参考までに載せておきます。

www.jinpe.biz

 

 

 

寒くなってきたので、みなさん体調管理には気を付けてください。

 

それではまた(^O^)

 

 

メタ認知によって得られる大きなメリット

こんにちは~

 

最近指をガラスコップの破片でざっくりいってしまい、救急で縫ってもらったHecoです。

 

みなさん、ガラスコップを洗う時は慎重にいきましょう…

 

 

さて、今日は【自分を見つめること】と題しまして、メタ認知の話をしたいと思います!


聞いたことある方も、ない方もいますよね。


なんか難しそうに聞こえるこの言葉、蓋を開けてみたら「あ、そのことね!」ってなると思います。


みなさん、多かれ少なかれ自然とやっていることだと思います。

 

目次です(*^^)v

 

 

 

歴史や定義


メタ認知は1970年代にアメリカで誕生した概念です。


メタ(meta)とは「高次の」を意味する接頭語ですね。


定義は、『自己の認知活動(思考とか知覚とか感情など)を客観的に捉え、評価した上で制御すること』だそうです。


『認知を認知する』とも言えます。


要するに、自分が「考えている(た)ことや感じている(た)こと」を考える、みたいなことです。


客観的、俯瞰的に自分を見て評価する感じですね。


まだ、なんのこっちゃ、ってなる人が多いと思います。


具体例を出していきましょう。

 


例えば、友人と喧嘩をしてしまって言いたくもないことを言ってしまったとします。


それについて「あぁ、自分はどうしてあんなことを言ってしまったんだろう。もう少しこういう言い方をしたらよかった。」のように自己を振り返り、その先の行動についても考えること、ということです。


あるいは、人と話す時に、「自分ばっかり話してるな。もう少し相手の話を聴くようにしよう。」のようなこともメタ認知をしていると言えます。


かの有名なソクラテスの名言『無知の知』も言ってしまえばメタ認知のことです。


「自分が知らないということを知れ」ということですから。

 

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ソクラテス

メタ認知することのメリット

 

では、「メタ認知ができるからなんやねん、なんかええことあるんか?」ということについて考えていきます。


まず、自己を客観視するわけですから、自分がどのような人間か分析できるようになります。


どのような人間、とまでいかなくても、例えば、自分は「こういう場面ではこう振る舞う人間だ」というような行動(あるいは思考)パターンがわかるようになってきます


そして、それらのパターンがわかってくると対処方法や解決策が見えてきます。


例えば

 ①後輩のなにげない言動にイライラする

 

 ②どうしてイライラするのか考える←メタ認知

 

 ③「後輩は普通ならこう動くはずだ!」という自分の認知パターンに気づく

 

 ④後輩とそれを話し合い共有する。あるいは、自分の中でその「普通なら〇〇はずだ」という認識を改める。

 

④はあくまでも一例に過ぎないので、もっといい解決策があるかもしれません。


なんにせよ、原因となる認知がわかれば、それに対する対処方法も見えてきます。

 

結果的に、自身の悪感情や行動が変化することにつながります。

 

ケンカにおけるメタ認知


ケンカ中など、イライラしたり、混乱している時、感情が優位になっている時はこのように自分の思考や言動を振り返る余裕がないかもしれません。


しかし、その感情の波が通り過ぎたあと、「自分に非はなかったかな、言い方キツかったな」など振り返ることはとても大切です。


また、最も大切なことは『振り返ったことを、相手ときちんと共有すること』です。


自分の中で解決した気にならず、「あの時はこういう気持ちだった。」「あの言葉が嫌だったからそうなってしまった。」「あの言い方はきつすぎた。」などきちんと伝えることが大切です。


親友でも、夫婦でも、兄弟でも、恋人でも、結局は自分とは違う人間です。


何を考えていたか、何を考えているかは絶対に理解しきれません


だからこそ、その時々の感情や考えを言葉にして伝えることが大切だとぼくは思います。


そしてその感情や考えなどに気づくために、メタ認知を意識することが役に立つかもしれません。

 

 

おまけ

 

余談ですが、メタ認知も含む大きな概念にEQ(Emotional Quotient)というのがあります。


心の知能指数と訳されてます。


これは、自己の感情に気づきコントロールする能力や、他者の感情に共感、理解する能力を含む幅広い概念です。


一時(今でもかな?)ビジネス分野で流行ったみたいです。


卒論で使った概念なのでこれについても記事にできたらいいなぁ。